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author : optical engineer

20190413

今日は正午頃には少し暑いくらいで、日が傾いてきて風が吹くと肌寒い、とても過ごしやすい春の日でした。もう半月も経てば、半袖が恋しくなるような暑い日も出てくるのでしょうね。


会社の同期に誘われてお花見をしました。といっても、久しぶりの人、初めて会う人が沢山いる会で、話してばかりで桜はすっかり身損ねたのですが。

 

◇#10分遺言 :人々の「最後の言葉」を収集するアートプロジェクト|WIRED.jp

https://wired.jp/2019/04/08/10-min-last-words/

 

ドミニク・チェンさんのインスタレーションの紹介。タイピングされるキー入力をレコードしておいて、打っている様子をモニター上に可視化したり、あるいはキーボードのキーが勝手に押下するといった形で表現するもの。

 

10年前は舞城王太郎に打ってもらったのに対して、今回は大衆のそれを表現してみたくなった、という部分に興味を持ちました。

 

平田オリザ東京ノートの話をします。一見、どこにでもある事を淡々と話しているような物語なのですが、よくよく見ると、「日常で遭遇しそうで、かつ遭遇したら思わず聞き耳を立ててしまいそうなネタ」をみっしり詰め込んだ上で、それらの本題ではない部分にさらに重大な世界の秘密が隠されている(しかしそれが本筋であるとは言えない)という、普通の言葉の集積で普通でない事を作り上げた傑作戯曲です。


この戯曲は、プロフェッショナルがアマチュアのように振る舞う事で、それを受けたアマチュアの表現自体を底上げしようとするような行為だと私は勝手に思っているのですが、チェンさんの興味はそうではなくて、アマチュアの表現それ自体に価値を認める視点です。

 

杉浦日向子さんが江戸の市井に向けていた眼差しとも共通する、名もなき愛すべき大衆、といった価値観であると感じます。

 

かつては「表現をする」というのは特別な事でした。それがすっかり特別なことではなくなり、恐らくいんたーねっとじょうには、有意なデータ以上に圧倒的にノイズに等しいようなデータが増え続けていて、人類はほとんどゴミを生産しているのだと思います。

 

けれどそれは。リソースが限られていたために叡智だけを積み上げていった時代よりもいいのではないかと。それに価値を見出していた誰かがいたという、その総体が人類であるということかなと、そんな風に感じました。

 

(だからこそ、ふとした時に一瞬で表現が最適化されていってしまうような昨今の状況に、少しもやもやするものを感じているのですが、それはまた別の話ですね)